池田修三の写真

池田修三という木版画家

1922(大正11)年、秋田県にかほ市象潟町生まれ。
旧東京師範学校学校(現・筑波大学)を卒業後、秋田県立由利高等学校、聖霊高等学校(現・聖霊女子短期大学附属高校)の教師となるが、1955年に退職し上京。木版画に専念することとなる。初期12年間のモノクロ版画を経て、多色摺りに移行した。 全国主要都市で個展を開催し、秋田県の企業カレンダーやテレフォンカード等に作品が採用される。 一貫して子どもをテーマにした作品を作り続け、晩年には風景画も手掛けた。 2004(平成16)年に82歳で逝去した。

制作過程

①下絵

下絵

②版木(彫る)

版木

③着色(摺る)

着色

木版画の制作に必要な、①下絵を描く、②木版を彫る、③色を摺るという工程は、それぞれに高度な技能が必要とされるため絵師・彫師・摺師と分業して制作します。しかし池田修三は、そのすべての工程を一人で行いました。

制作過程

①下絵

下絵

木版画の制作に必要な、①下絵を描く、②木版を彫る、③色を摺るという工程は、それぞれに高度な技能が必要とされるため絵師・彫師・摺師と分業して制作します。しかし池田修三は、そのすべての工程を一人で行いました。

②版木(彫る)

版木

③着色(摺る)

着色

経歴と作風の変化

1950年代〜
『油絵・モノクロ版画(旗の行列)』

『油絵・モノクロ版画(旗の行列)』

1980年代〜
『広報誌での掲載(月シリーズ)』

『広報誌での掲載(月シリーズ)』

1990年代〜
『晩年の活動(風景画)』

『晩年の活動(風景画)』

出展実績

  • 1958
  • ・『現代木版画秀作展』出展
  • 1968
  • ・『ピストイア版画ビエンナーレ』出品
  • ・『100点の日本現代版画アメリカ巡回展』出品
  • 1983
  • ・『池田修三展』山形県酒田市
  • 1985
  • ・『象潟町村合併記念個展』
  • ・『版画展』酒田市大沼
  • 1990
  • ・『池田修三個展』旭川から松山まで主要都市で開催
  • 2001
  • ・『象潟ねむの丘三周年記念個展』

出展実績

  • 1958
  • ・『現代木版画秀作展』出展
  • 1968
  • ・『ピストイア版画ビエンナーレ』出品
  • ・『100点の日本現代版画アメリカ巡回展』出品
  • 1983
  • ・『池田修三展』山形県酒田市
  • 1985
  • ・『象潟町村合併記念個展』
  • ・『版画展』酒田市大沼
  • 1990
  • ・『池田修造個展』旭川から松山まで主要都市で開催
  • 2001
  • ・『象潟ねむの丘三周年記念個展』
作品過程
制作過程 01 -下絵-
まず初めに下絵を作成していきます。
ただ形を決めるだけではなく、配色に合わせて影などの輪郭線を入れたり、使う色を設定したりと、完成する作品から逆算し緻密な設計図として描きあげます。画力だけでなく、構成を作る能力が求められる工程です。
作品過程
制作過程 02 -版木(彫る)-
次に下絵を元に木版を掘っていきます。 「彫師として認められるまでに10年以上かかる」と言われるほどに高い専門技術が必要な工程です。また、木の板というやり直しのできない素材を扱うため、集中力と正確性も求められます。池田修三のように多色刷りを行う場合、色を配置する箇所を分けるために、何枚もの版画を彫らなければなりません。 ちなみにこの作品では4枚の版木を両面、計8枚を堀っていきます。
作品過程
制作過程 03 -着色(摺る)-
最後に、和紙に色を摺ります。 ベースとなるビリジアンから、13色を塗り重ねてやっと一枚の作品が完成です。同じ作品を何枚も作るためには、無数の色の組み合わせから、的確に色を配合し再現していく必要があります。 また、質感も同一になるように摺らなければならないため、高度な正確性が求められる工程です。
1950年代〜
『油絵・モノクロ版画(旗の行列)』
1950年代〜『油絵・モノクロ版画(旗の行列)』
池田修三は、1922年4月30日に、秋田県象潟町に生まれました。 東京高等師範学校(現筑波大学)芸能学科で美術を学び地元の美術教師になりますが、1955年に画家の近藤良悦のおすすめもあり、上京し、版画に専念しました。木版画へと移行し、1958年には日本版画協会会員となりました。
1960年代〜
『木版画(ゆこうよ)』
1960年代〜『木版画(ゆこうよ)』
1960年代になると、モノクロ版画から多色刷りに移行しましたが、主テーマは一貫して子どもたちの情景でした。 1968年には『ピストイア版画ビエンナーレ』『百点の日本現代版画アメリカ巡回展』に作品を出品、1975年にが文藝春秋デラックス「心のふるさとにほんわらべうた集」の表紙に作品が採用されるなど芸術家としての頭角を表し始めました。
1980年代〜
『広報誌での掲載(月シリーズ)』
1980年代〜『広報誌での掲載(月シリーズ)』
1980年代に秋田相互銀行のカレンダーや通帳、NTTや日本生命などの企業カレンダー、テレホンカードなどに作品が採用されたことをきっかけに、秋田県を中心に広くその名が知られる様になりました。 また、1985年4月から、地元象潟町の広報誌の表紙に自身の作品を無償で提供し、象潟との関わりがはじまりました。
1990年代〜
『晩年の活動(風景画)』
1990年代〜『晩年の活動(風景画)』
1990年代になると「地元の人が喜んでくれるから」という理由で、象潟の情景を中心に風景画の制作を始めます。1994年に象潟役場新庁舎完成記念として、数十展の作品を寄贈。 2001年に開催した「道の駅ねむの丘」3周年記念の個展及び予約販売会で好評を博すなど、地元象潟を始め多くの人に愛されながら2004年に死去。享年82歳でした。